ここは一般ピーポー(歩行者)のたっくんによる戯言をとどめて置くだけのblogなのですよ…
カウンター
カレンダー
03 | 2024/04 | 05 |
S | M | T | W | T | F | S |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | |
7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 |
14 | 15 | 16 | 17 | 18 | 19 | 20 |
21 | 22 | 23 | 24 | 25 | 26 | 27 |
28 | 29 | 30 |
最近はちょっと忙しいのでちょびちょび行進(更新)中
ブログ内検索
オリコン ランキング
こんなの見つけました(゜▽゜)
TB練習も兼ねて(というよりこっちがメインの目的),TB本舗さんのお題について今日は書きたいと思います.そこでまず論理的に分解してみた後に私の感想・思想を述べたいと思います.一応先に賛否を言うならば賛成です.
こうのとりのゆりかご(赤ちゃんポスト)の基本概念は「やむを得ない事情で赤ちゃんを、両親に代わって育てる」(TB本舗さんからそのまま拝借しました)です.ここで「やむを得ない事情」というのは,経済的問題,両親の状況的問題(刑期とか育てるのが無理な状況に陥ること)といったところでしょうか(他にもあるかもしれませんし,間違ってるかもしれませんが,ここではこのように定義させてもらいます).
次に,賛否両論となるこの問題において,着眼点をどこに持つべきか,なのですが「赤ちゃんの人権」が妥当でしょうか.物心が十分についていないとはいえ,誰にだって幸せに生きる権利はあるのだから.そしてその幸せというものは「両親に(理由はともあれ)捨てられた」という事実に向き合うことができるのか.この辺りが問題になるのだと思います.
しかし,タイトルにも使わせてもらいましたが「幸せ」の定義って何でしょうか.また,上記に記したように幸せになる権利と言われるのが一般的なのはなぜでしょうか.
こういう問題について考えていきます詳細は ---続きを読む--- で.
こうのとりのゆりかご(赤ちゃんポスト)の基本概念は「やむを得ない事情で赤ちゃんを、両親に代わって育てる」(TB本舗さんからそのまま拝借しました)です.ここで「やむを得ない事情」というのは,経済的問題,両親の状況的問題(刑期とか育てるのが無理な状況に陥ること)といったところでしょうか(他にもあるかもしれませんし,間違ってるかもしれませんが,ここではこのように定義させてもらいます).
次に,賛否両論となるこの問題において,着眼点をどこに持つべきか,なのですが「赤ちゃんの人権」が妥当でしょうか.物心が十分についていないとはいえ,誰にだって幸せに生きる権利はあるのだから.そしてその幸せというものは「両親に(理由はともあれ)捨てられた」という事実に向き合うことができるのか.この辺りが問題になるのだと思います.
しかし,タイトルにも使わせてもらいましたが「幸せ」の定義って何でしょうか.また,上記に記したように幸せになる権利と言われるのが一般的なのはなぜでしょうか.
こういう問題について考えていきます詳細は ---続きを読む--- で.
はっきり言ってしまうと,幸せになれる人なんていないと思っています.そういう理由から「こうのとりのゆりかご」には賛成したいと思います.
これは私の持論というか,考え方なのですが,幸せというものの存在は神の存在と似たようなものだと思います.神という存在は,信じる人にとっては存在し,信じない人には存在しません.また,信じる神が違うということも違います(キリスト教徒とイスラム教徒では信じるものが違うために相容れないですよね).幸せというのもこれと似ているのです.自分が今,幸せであると感じているならば,幸せであるのです.感じないならば幸せではないと言えます.また,何を持って幸せというのかも人それぞれなのです.ただし,注意しないといけないことが,自分の理想・夢が叶うことだけで幸せを感じることはできません.幸せを感じることができると人は現実ときちんと向き合えるだけの素養があると思います.特に理想・夢をかなえようと思えば,挫折などを味わうことも多いでしょうから,現実と向き合ってきているのです.
誰にだって幸せになる権利がある.権利というのは幸せと感じることが可能であるということではないでしょうか.血を分けた両親ではないから幸せになれないというのは,こう考えれば直感的に違和感を感じてしまいます.確かに実の両親ではないという事実は,その子に「自分は不幸である」と感じさせるのに十分であると考えられます.しかし,それが「イコール幸せになれない」ではないのです.
さて,反対派の皆さんがこれが納得できる部分であったならば,次に取り上げるべきは「産むだけ産んでおいて育児を放棄する両親を誘発する」という問題でしょうか.これについては反論できません.実際そうなるだろうと私も思っています.しかし,実際産む/産まないの問題までには「こうのとりのゆりかご」は効果はないでしょう(分かりにくいでしょうが,これがあるからとりあえず産んでみるという意見はでないだろうという意味です).よって,産んだ子の育児を放棄しようと安易に考える両親の下よりも生きる自由が与えられると私は考えます.
最終的な結論としては,私はこれ自体には賛成します.しかし,過去の記事の「いじめ問題」では長くなってしまい取り上げれなかったのですが,日本の道徳が今の資本主義・実力主義に対して,合わなくなっているので根本的に見直す必要があるのだと思います.道徳的理想と現実のギャップを埋められない現状が,今日までの悲劇や惨劇を生み出していると考えているからです.
これは私の持論というか,考え方なのですが,幸せというものの存在は神の存在と似たようなものだと思います.神という存在は,信じる人にとっては存在し,信じない人には存在しません.また,信じる神が違うということも違います(キリスト教徒とイスラム教徒では信じるものが違うために相容れないですよね).幸せというのもこれと似ているのです.自分が今,幸せであると感じているならば,幸せであるのです.感じないならば幸せではないと言えます.また,何を持って幸せというのかも人それぞれなのです.ただし,注意しないといけないことが,自分の理想・夢が叶うことだけで幸せを感じることはできません.幸せを感じることができると人は現実ときちんと向き合えるだけの素養があると思います.特に理想・夢をかなえようと思えば,挫折などを味わうことも多いでしょうから,現実と向き合ってきているのです.
誰にだって幸せになる権利がある.権利というのは幸せと感じることが可能であるということではないでしょうか.血を分けた両親ではないから幸せになれないというのは,こう考えれば直感的に違和感を感じてしまいます.確かに実の両親ではないという事実は,その子に「自分は不幸である」と感じさせるのに十分であると考えられます.しかし,それが「イコール幸せになれない」ではないのです.
さて,反対派の皆さんがこれが納得できる部分であったならば,次に取り上げるべきは「産むだけ産んでおいて育児を放棄する両親を誘発する」という問題でしょうか.これについては反論できません.実際そうなるだろうと私も思っています.しかし,実際産む/産まないの問題までには「こうのとりのゆりかご」は効果はないでしょう(分かりにくいでしょうが,これがあるからとりあえず産んでみるという意見はでないだろうという意味です).よって,産んだ子の育児を放棄しようと安易に考える両親の下よりも生きる自由が与えられると私は考えます.
最終的な結論としては,私はこれ自体には賛成します.しかし,過去の記事の「いじめ問題」では長くなってしまい取り上げれなかったのですが,日本の道徳が今の資本主義・実力主義に対して,合わなくなっているので根本的に見直す必要があるのだと思います.道徳的理想と現実のギャップを埋められない現状が,今日までの悲劇や惨劇を生み出していると考えているからです.
PR
Comment
この記事にコメントする
Trackback
この記事にトラックバックする: |
言語変換
若干言語変換が可能です.
ちょっとしたお楽しみ要素と受け取ってください.
ちょっとしたお楽しみ要素と受け取ってください.
最新記事
プロフィール
HN:
たっくん
性別:
男性
職業:
学生
趣味:
ゲーム・読書
自己紹介:
ニックネームは中学の同級の子が「謎の人物」田村と間違えて呼んできたことから
結構気に入ってたりするのですがっw
結構気に入ってたりするのですがっw
最新CM
リンク